刷り込みからの脱却を図る ~知的衝動と情報リテラシーについて

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人間は生まれた瞬間から物事を学び始めます。そして、最初はその多くを身近な両親から学ぶのではないでしょうか。表情や動作などの身体的学習や、会話や語彙などの言語学習は特にそうでしょう。身近なものから情報を得て、繰り返し学習することで人の能力は形成されていくが、いずれにしても人間が学習によって得られる知識というものは、刷り込み(教えられたこと)と思い込み(見聞きしたこと)である。

そして、誰かの既存の知識、つまり、上記の学習によって得られる知識自分だけの経験がミックスされた結果、意識的(よく考える)か無意識的(自然に思いつく)か、また、他者へ向けてアウトプットされるか、されないかも別にして、必ず何か新しいものが頭の中に生まれているはずである。これが、新しい知識が生まれる過程です。

結果として、それが「発言、出版物、作品、製品、その他の空想・妄想を含めたアウトプット」となります。それら全ては、自分のオリジナルの新しい知識なのです。

このアウトプットは、運が良ければ誰かに習得され、そして彼らの頭の中で咀嚼(そしゃく)され、新たな知識となってアウトプットされる。この繰り返しが人間活動の中では行われています。

ずっと遡(さかのぼ)って、人間の起源を辿(たど)れば、現代の知識や知恵は、必ず誰かの経験から始まっています。ということは結局、人間は過去から学んだ経験の積み重ねの中を生きているということです。もっと言えば、人類の経験の積み重ねだけが、新たな知識と知恵の源と言えます。

未来を創造するその頭の中も、全ては過去の知識の集積に他ならない。つまり、地球上にいる(または過去にいた)各人の知恵を結集した叡智(えいち)が、未来を切り開く淵源(えんげん)となっていると言えるのではないでしょうか。

そして、付け加えればこう言えます。「誰一人として、生涯、全く同じ経験をする者はいない」と。つまり、人生においては、全ての人が誰とも異なる独自の経験をしています。これを読んでいるみなさん一人一人も例外なくそうなのです。そして、地球全体(人間社会全体)を考えた時に、これらの新しい知識をより効率的に未来に活かすためには、効率良い「知識の結集手段」が必要になります。

ともすると人間は、無意識にそれに気が付いていて、ときに知識欲が沸き起こり、学び、啓蒙し、そして現在のように、情報のメイン媒体であるインターネットを活用するような社会のしくみを作り上げたのではないかと考えられます。

ここで、誰一人として同じ経験をしないということを改めて考えてみます。親が違えば、それだけで家庭環境は異なります。そして、経験する事象も異なります。
あなたと友達は全く違う経験をしていますね。

一卵性双生児でさえ、全く同じ経験をするわけではないのです。同じものを見たとしても、ふたりの物を見る角度は違います。どんなにふたりが近づこうとも、視界を重ねることは出来ません。同じなのは姿かたちだけです。(それも全く同じと言うことはないです)どちらかが右にいれば、もう一人は必ず左にいます。その位置関係の存在だけでも、もはや環境は異なります。ましてや兄弟(姉妹)はなおさらです。

人間が得る情報の多くは視覚が主であることを考えても、物の見え方しだいで、脳内の処理は大きく変わるはずです。※五感から得られる情報のうちの大部分は視覚からのものが占めています。

大人になってからの、ある瞬間的な情報取得の微妙なズレなら(例えば、野球場で観戦しているときに、バッターが打ったホームランをライトスタンドから見ていたか、レフトスタンドから見ていたかといった大きな違いでも)、脳内の処理には大差はないと思いますが、人間の生涯を通した場合のそのズレの累積を考えれば、脳内で処理された情報の差異は相当なものとなります。

そして、その違いは人間の言動または創造となって現れます。それは言い様によっては、個性とも表現されます。当たり前の話ですが、双子ちゃんにもそれぞれの個性があります。

生涯にわたって複数の人が、全く同じ環境で育ち同じ経験をして、そこで育まれた見識によって、同じ言動をするということはありえないことなのです。同じ遺伝子を持っているからといって、「全てが同じになるわけではない」ということに疑う余地はありません。

ここから考えると、他人は必ず自分にはない知識や経験を持っているという結論になります。皆さんが頭に思い浮かべる、その人もあの人も、過去においても未来においても、です。

そして、大げさに言えば、これら全人類の全ての知識と経験の結集が、現在の地球上における全知全能の限界と言えるのではないでしょうか?非常識であろうが、奇想天外であろうが、全ては人類の知識の中での出来事です。その中で、自分が何を習得して、何を生み出したかという組み合わせだけが、個性となって表れているに過ぎません。しかし、そうは言っても、全知全能は魅力的です。そこに少しでも近づきたい。そう考える人は少なからずいるはずです。とにかく、なんでも知っていて、どんなアイデアでも湧き出るのですから。しかし、自分が全知全能になったらどうなるのでしょう。果たして、それは万能なのでしょうか?

さて、全知全能はさておき、僕たちが普段あまり考えない刷り込みについて考えてみます。そして、次のように僕が勝手に定義してみます。

刷り込みとは、一部の知識や経験を知らしめようとする啓蒙活動であり、刷り込みからの脱却とは、新たな経験への挑戦と、他の知識へのアクセスの試みである。

一般的に言われる「刷り込み」という概念を考えると、「押しつけ」というイメージがあります。学校教育、テレビ・新聞、あやしい類の洗脳然り。そして、あやしい場合を除けば、「刷り込み」と「脱却」、一体どっちが大事なのだろうかと考えた。

前者(刷り込み)は知識を得る側からしてみれば受動的(受け身)であって、後者(脱却)能動的(積極的姿勢)です。だから、一見すると積極的な後者が大事に見えます。大人の僕が、よくよく考えても、やっぱり後者が大事に見えます。本当だろうか?

話は少し逸れるが、世の大人の多くは、たびたび知的衝動に駆られると思います。
(知的衝動とは、「知りたい」と感じる内から沸き立つ衝動のことをいいます)

子供の頃はそれほど意識しなかった(あったのか、なかったのかさえも覚えていない)知的衝動を、大人になると強く感じるようになります。

それは、こういうことだと思っています。

小さな子供ほど見識が浅いということを、人類(大人)はその経験から知っています。だから、子供に一定の見識を持たせるために、大人は必要と思われる知識を、学校教育や家庭教育によって刷り込もう(教え伝えよう)とします。啓蒙活動ですね。

素直な子供やいわゆる出来の良い子は、それをそのまま受け入れ、嫌がる子供は受け入れない代わりに、自ら別の経験をする。(もしかすると、嫌がる子供は、ここで知的衝動が湧いているのかもしれない)

与えられるままに一定の知識を得た素直な子供は、その知識と自らの経験から新たな見識を獲得し、一方、与えられる知識を一部拒否した嫌がる子供は、一部の与えられた知識と素直な子供とは異なる自らの経験に基づいた見識を獲得する。ここでは、どちらもそれなりの見識を獲得しているように見えます。

大人になると、素直だった子供は、そのときに得た知識が大人の世界では通用しないことを知り、鼻をへし折られる。(大いに通用することもたくさんあるが)一方、嫌がった子供は、多くの人が知っている知識を持っていないことに後悔する。

結局どちらの場合でも、経験を積む(大人になる)ことによって、子供の頃に獲得した知識と経験が不足していたことに、時には間違っていたことに、今さらながら気付くのです。素直だった子供でさえも、そうなるのです。

そして、大人になって、物事を知れば知るほど、自分の知識の物足りなさに気が付く。それと同時に、物事は知れば知るほど、自分の頭の中の知識のネットワークがつながることを知り、知識には無駄がないことに初めて気が付くのです。

結局、知識を積み重ね、見識が高まるにつれて、自分の無知さに気が付き、これを補おうと知的衝動に駆られるというのが本当のところではないでしょうか。

さて、そうなると、子供に対しては、ある程度の詰め込み教育が必要と考えられ、ここで出来るだけ多くの知識を子供自身が獲得して、より多くのアウトプットをする子供が見識を深めることとなり、さらにそれは新たな知識へのアクセスを早め、刷り込み教育からの脱却もそれだけ早くなるということにならないだろうか。

あれ?「脱却」の方が大事だと考えられたから、「刷り込み」教育を批判しようとしていたのに、この流れは「刷り込み」を肯定する結果になりつつあります。

そこで、そのまま否定はせずにこう考えました。

刷り込み教育と脱却は必然的な一連の流れではないかと。当たり前と言えば当たり前です。「刷り込み」があったから、そこから「脱却」しようとするのであって、「デフレ」だったから、安倍政権は、そこから「脱却」しようとするのである。

それはさておき、こう言えるのではないでしょうか。

最初は、知識の基礎を築くために刷り込み教育が必要であり、基礎が出来たところからは、型にはまらない知識の欲求が芽生えて、そしてその結果、脱却が始まるのではと。言ってみれば、脱却は自らの新たな知識のアウトプットの始まりです。

世の中にはいろんな人がいますので、与えられるままに情報を取り込むだけの人もいれば、逆に疑って掛かる人もいる。一部を正しいと判断して取り込んで、一部に疑いを持って接する人もいる。それらは全て、それぞれがこれまでに歩んできた「それぞれの道」で拾い集めてきた知識の積み重ねの結果なのです。

人生の早い段階で「刷り込みからの脱却」が始まると、それだけ長く自らの新たな知識や知恵を生み出すことが出来るので、知識という点においては、世の中に大きく貢献(言い過ぎかな?)することが出来るようなると考えられます。少し前に言った定義を思い出してほしい。

刷り込みからの脱却とは、新たな経験への挑戦と、他の知識へのアクセスの試みである。

つまり、何かにとらわれず、自分の頭で物事を考えて、行動するということです。大人もさることながら、より可能性のある子供たちにこのことを知ってもらいたい。

最後に一つだけ言っておきます。

基礎学習のためには刷り込みも大事。とは言え、嘘や歪曲した内容の刷り込みは絶対に良くないです。情報リテラシーを獲得する以前の子供には、これらを見抜く力はありません。ただ、大人も例外ではありません。人間の脳は簡単に情報に騙されるように出来ています。そして、嘘や歪曲は既存の知識からの脱却を遅らせる大きな要因になります。

みなさんは、世の中の溢れんばかりの情報に騙されていませんか?お互い、情報リテラシー(おもに読み取り能力)を高めましょう。今回はここまでです。

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