幸せの定義

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更新:2017年9月5日

大人であれば誰も、これまでの人生で一度は「幸せとは何か」ということについて考えたことがあると思う。まだまだ人生の始まりに過ぎない小学生でさえそれを考える場合がある。

人にはそれぞれの解釈があり、また時によりけりである。普遍的な答えはないような気もするし、出した答えにも確信は得られない。それでも、僕が辿り着いた幸せの定義は、ともすれば本質を突いているかもしれない。

『幸せとは、生きている実感を味わうことである』

楽しいことや嬉しいことを幸せだと感じられない人はあまりいないだろう。そして、この定義に従えば、辛いことも苦しいことも幸せということになる。

なぜか?

人は生きているからこそ辛さや苦しさを実感できる。もちろん、楽しいこともあれば嬉しいこともたくさんある。そしてもちろん、それらも実感できる。生きているからこそである。

どう足掻こうが、人間は死んだら終わりである。当たり前のことなのに、普段、人はそれを意識しない。でも本当に終わりなのである。例え故人の精神や魂が、残された者たちに受け継がれたとしても、故人は無になり何も感じなくなる。

そう、生きていなければ何も感じることは出来ない。それゆえ、幸せも感じることが出来ない。だから、しいて言うならば、生きていることこそ「幸せ」である。しかし、それを言ってしまったら幸せを定義する意味自体がなくなる。

自分のことと思ってほしい。

誰にでも辛い経験や苦しい経験がある。当たり前のようにその瞬間を「幸せ」と感じられた人はいないだろう。ほとぼりが冷めて、そのことから逃れることが出来たとき、初めて幸せを感じるのである。健康を取り戻したとき、失恋から立ち直ったとき、試験に合格できたとき、再就職できたとき、家族や友人と仲直りできたとき・・・。いずれの場合も精神や環境が負から正へと転じたとき、幸せに似た感覚を覚えることだろう。

よく考えてもらいたい。

普段、人は多少の不調を訴えつつもそれなりに健康を維持しながら生きている。それが、病気のときには突如辛さを覚える。この時、普段の自分の健康状態をどれほど羨ましく思うことだろう。そう、普通のことが幸せと思える瞬間である。

こうして考えてみれば、普通のこともまた幸せとなりうるのである。人生には波があり、沈んでいるときは辛く思うが、浮上してきたときは幸せを感じる。個人差があるにせよ、この高低差によって人は自分の幸せを実感する。しかし、こんな瞬間的な浅い心理の話ではなく、人生を俯瞰すれば違うものが見えてくる。どんな状況でも案外人間は幸せを感じられるものなのである。自分自身が生きていると実感できるときはいつでも。

辛い時や苦しい時には、自分の心にこう言い聞かせてもらいたい。

「自分は今、生きている」と。

ついつい忘れがちな自分の幸せな状況を認識するための切っ掛けがこれによって与えられる。そこで自分が今「幸せ」だと感じられるかどうかは自分の意識の持ちようとなる。

改めて言いたい。人間は死んだら終わりである。今、生きているが、自分のあしたがやってくる保証はどこにもない。そのときまで、今しかできない幸せの実感を味わうべきである。

人間の性というべきか、人は他人と比較することで自分を認識する。だから幸せな他人を見て自分を悲観し、不幸を見て自分に安堵する。これでは自分の幸せを他人に依存しているとしか言えない。自分の人生は自分が決めるのであって、他人が決めるものでも他人に決められるものでもないのである。幸せもまた然りである。

本当の善意で人を幸せにしたいと考えた。みんなに同じことをした。それを受けたある人は幸せや感謝を感じてくれたが、そうではない人もいた。こんなに本気でやったのにどうして幸せや感謝を感じてくれないの?

この感情は、幸せは人によって与えられるものではないという証拠そのものである。もちろん善意は良いことだが、幸せは行為を受けたその人自身がどう感じたかであり、幸せを感じるのは本人次第ということなのである。

そうであるなら、自分自身が幸せをより多く感じられる感性を持ったほうが良いに決まっている。そのように考える習慣が人間の感性を変えることもある。生きているということ自体が「幸せ」と考えるようになれるなら、人生の全てが幸せになる。

『幸せとは、生きている実感を味わうことである』とはそういうことである。

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